kisaki treckers Jan '95 平成7年1月1日発行
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もくじ ◆澤尚幸劇場・両神山は今日も霧だった。 ◆高岡淳四の風雲山登り録・屋久島タンカン編 ◆妃の提案・詩人だって山を歩けばいいと思う。 澤尚幸劇場・両神山は今日も霧だった。 そして私たちは山へ向かった まずは、お医者サンの田中君。登山に医師同行とはなんとも心強い。本人はライセンスがあるだけの医者だと言っているが、とにかく一応、本登山隊の隊長というところでしょうか。次は、T大文学部仏文大学院生の高岡君。登山サークルに入っていたということで、山のプロ。登山に登山のプロがいるのもなんとも心強い。以上の二人は詩人という共通点を持っている。そして、文学とは何も関係ないのに、この文章を書くことにあいなった、私こと澤。お仕事は公務員。詩人ではないが、一応日曜音楽家ということになっている。登山に公務員は何の役に立つのだろう。 どうしてこの三人が両神山に登ることになったかといえば、直接的には、ちょうど一週間ほど前に、高岡君から 「田中さんと両神山に行くのですがあなたもいかがですか」 といった趣旨の電話をもらったことによるのだが、本質的には、高岡君に山登り熱をうつされた田中君の 「山に登るといったことを始めてみようと思うのだけれど」 という話を昨年の忘年会シーズンに 「ふむふむ」 といって賛同したことによるのだろう。登山は私にとって 「心のリハビリ」 とまでいっても過言ではないものなので賛同したのは当然なのだが、その後実際に数回企画されたこのメンバーの行楽には参加できずにいた。実際に参加をしたのは今回がはじめてとなる。 ちょうど、予定していた黒部の下ノ廊下行きが、 「雪渓がまだ残っている」 というとても十月とは思えないことでキャンセルになり、三連休が宙ぶらりんとなっていたこともあり、早朝出発の強行日帰りコースということで両神登山が決まった。本来なら途中の清滝小屋で一泊した後に頂上を目指す、一泊二日がノーマルなコースなのかもしれないが、十日に予定が入ってしまっていた私のわがままで日帰りとなった。 だが西武電車には誰も乗っていなかった 当日はあいにく、曇空の肌寒い日だった。私の登山日のおきまりで、まず、公務員宿舎近くのファミリーマートに行き、朝食と昼飯を購入する。定番は、朝はサンドイッチと牛乳、昼は「おにぎり+カロリーメイト+水」 で、この日もほぼその通りとなった。 前日は雨の悪天候、当日も曇とあっては、行楽客の出足が鈍るのは当然だが、やはり、行楽時期の日曜日にしては電車が閑散としていた。 6時20分に池袋到着。あとは、二人が来るのを待つだけである。電車は、6時39分発の西武秩父行快速急行の予定。 「少し早かったかな?」 と思い、ホームでうろうろする。西武池袋線は大学時代の通学路線でありなじみが深い。待つこと10分、6時30分になっても音沙汰なし。高岡君は各停で池袋に来るはずだから、そろそろ来ていないと快速急行に乗り遅れることになる。「ひやひや」しつつも、もしかしたら、乗るべき快速急行に乗ってきて折り返すといった「ワザ」なのかも、といったところまで気を回し、淡い期待をする。電車は来てしまった。 「ああ、間に合わなかったか。やれやれ。」 高岡君は途中で乗れるとしても、杉並の田中君はいったいどうなっているのだろう。どこで乗るのだろう。初っぱなから、躓いた。 こうして三人のはずが、私一人を乗せて、電車は定刻通り発車した。ここからの行動は時間がたっても結構つぶさに覚えている。よっぽど肝が縮む思いをしたのだろう。こういうときにこそ頭というのはフル回転するものだなとつくづく思う。 まず、車内を一通り歩いてみた。 「1両目、飯能より。」 とは聞いていたが、もしかしたら、逆の1両目かもしれない。まず、考えそうなことを実行したまで。 やはりいない。そうこうしている内に、練馬駅が高架工事をしていたことを思いだし、一瞬だけ鉄ちゃん(鉄道ファンのこと。)と化す。やっと下り線だけ高架になったことを確認して、再度事後処理を検討する。高岡君が石神井公園から乗ってくる可能性を察知し、石神井公園で一瞬下車、再度乗車。 「やはり乗ってこない」 電車は、さすが快速急行。順調に走る。 「このまま行くと、どうなるかわからない。とりあえず、所沢で高岡君に電話しよう」 ということで、所沢で下車する。 7時、高岡宅へ電話。第一声は 「先ほど、起きたところです。ごめんなさい」というもの。まあ、遅刻はしかたないとして、驚いたのは、田中君はもともと所沢から乗る手はずになっていたというお話である。私は降りてしまっているから今電話しているのであって、田中君の乗った電車は、田中君だけを西武秩父に運んでいることになるではないか。 「ありゃ〜」 という言葉が頭の中をよぎった。まあ、今さらいたしかたないので、高岡君には7時10分池袋発の秩父鉄道直通「三峰口」行き快速急行に乗車してもらうことにし、私もそれに所沢から乗るよということにした。ようするに三人ともバラバラになってしまったことになる。 ところが、私はこの直後、西武秩父行きの特急がすぐ来るということを発見してしまった。 「これに乗れば、先ほどの快速急行に追いつくかもしれない。」 そう思い、なぜか「飯能」までの特急券を買った。今考えると、停車駅がほとんど変わらないので追いつくはずはないのだけれど。 「困った困った」 と悩みながら、ホームをうろうろしていた。そのとき、 「目の前をなぜ、田中君が通っていくのか?」 ようするに、田中君も乗り遅れたのである。 電車が山に入っていくにつれ空は晴れてきた 所沢では田中君は朝食となった。立ち喰いそばすらない構内。かといって、外に出る訳にもいかない。しかたなく、田中君持参のプリン+私のコンビニおにぎりが献立となった。プリンはデイバックの中でシェイクされいた。最近はそういう種類の飲物が売られているので、それほどの驚きはなかったと記憶している。 三峰口は意外に遠かった。おまけに、駅前にはコンビニ一つない。観光地というよりは、○○街道の宿場町といった感じである。どうも若いギャルが少ないことも、明るい観光地といったイメージを全くよせつけないのかもしれない。われわれの「お弁当を買う」という予定は、名物の「栃餅を買う」に化けてしまった。 今回の登山は「日向大谷」から登って、「白井差」に下山するというルート。どちらも公共交通機関の便は頗る悪い。だからといって、例えば、レンタサイクルで行くような距離でもなく、それどころか軽井沢のようにレンタサイクルが浮き立つ町でもなく、レンタサイクル自体存在しないので、タクシーで登山口に向かう。どうも、この秩父というところは、今はやりの観光地とは一線を画すようなものであるらしい。そう、私流に言わせていただければ、「新日本紀行(注:NHKの番組。富田勲によるテーマ音楽は非常に有名ですよね。)」の香りのする町といったところか。白黒フィルムで写真を撮ると絶対に味が出るというところです。 タクシーは、三峰口を出発し、一路「両神村」に向かう。運転手さんがいろいろおしゃべりをしてくれたが、要約すれば 「今度来る時は予約しておいてね」 ということに尽きる。すぐに両神村についた。ちょっとした町があり、ちょうど村の運動会ということもあり、町に活気があった。狭い道の両側にびっしりと路駐の車が並んでいる。町でひときわ目だっていたのが、あの「ふるさと創世1億円」でできた「両神温泉日帰り施設(薬師の湯)」と、なぜか存在する「日中友好の建物」。いきなり秩父の山奥の村に 「じゃじゃ〜ん」 と銅鑼の音が響きわたるような派手な建物が建っている。そのアンバランスはなんともいえない。 両神村からは更に道が狭くなる。対交できるのか不安な道が延々と続く。道路脇の川の水がどんどん澄んでいき、登りがきつくなると、今までの村道がいきなり林道になった。これから登山口まではすぐ。三峰口からはタクシーで5,000円弱だった。 なだらかな登りはいつまでも続いた 時間は10:00を過ぎていた。 「う〜ん」 やっと山についたということで、伸びをした。「心のリハビリ」に来たはずなのに、ここに来るまでに「身も心もズタズタ」になってしまった。その意味では「リハビリ」のしがいがあるというもの。今日の行程は約7時間。結構あるなというのが正直なところ。あの谷川岳でもロープウェイを使ってしまえば、往復4時間もあればいいのだから。登山開始時間は少し遅いなというところ。登り順は高岡、田中、澤の順。自然と決まったが、プロが先頭というのは妥当な選択。 日向大谷の集落を過ぎ、少し行ったところに水場がある。高岡君はここで水筒に水を汲んだ。この辺り水は豊富らしく、この両神山も、随分高所まで水には不自由をしない。これから40〜50分は植林された杉か桧の山道を進んでいく。楽しいハイキングレベルの道。私の頭の中には昨日聞いた、Men’s5の「"ヘーコキ"ましたね」という音楽がエンドレスで流れていく。周りの鳥の声や、風の音に擽られてロマンチストを演じているというのがハイキングの鉄則かもしれないけれど、そんなのは作られた登山で、私の場合は、歩調が決まってくると必ずといっていいほど、最近聞いた音楽が頭の中を流れ始める。高岡君や田中君はそんなこととはつゆ知らず歩いていたんだろうけれど。(でも、こうやって文章にしてしまったら、ばれてしまいますね)。 登りはじめて15分くらいたったところに分かれ道があった。右に行くと 「山道」 と書いてある。登山地図によれば、途中で七滝沢を通るコースと分岐することになっているので、この山道というのがその七滝沢コースであろうということで、われわれは左手に進む。結構ゆっくりしたスピードだったが、35分の予定コースを15分くらいできたのだから、 「まずまず。結構早いジャン」(これは私のこころの叫び) 家族連れの明るい声がうしろから聞こえてくる。こういう声も行楽登山には必要なアイテムと言えるだろう。 それから20〜30分くらい歩いたところで、再び分岐に出た。そこには、 「右──七滝沢コース」 と書いてある。 「なんだ、さっきのは本当の山道だったのか」 ということになった。一気に気が重くなる。 これから先はハードな登りが延々と続く。沢をわたったり、途中、「日本酒の銘柄」と関係があるのかどうかわからないが、「八海山」という名前の場所があったりはしたが、それほど変化はない道が続く。 「結構辛いね」 といった声と、ただただ汗を拭くという行動だけの山登りになる。黙々と登る。辛いにも関わらず、私の頭の中は「"ヘーコキ"ましたね」が「嘉門達夫の小市民大全集」に変わっただけで、やっぱりハイな状況には変わりがない。文章では音楽がお伝えできないのが本当に悔しいですね。山登りが「心のリハビリ」になるのは、こんなハイな状態が持続するからだと思うのですが。 私たちは山頂で栃餅を食べた 本当に辛い登りが続き、やっと清滝小屋に着いた。小屋に着くと「ほっと」するのはどこの山でも同じで、この時ばかりは三人とも顔に笑みが浮かぶ。平成4年に新築された小屋は丸太作りの立派なもの。ちょっとしたペンションという感じすらする。ただし、天気はまだ曇のまま。おまけに霧まで発生し、よろしくない。 小屋脇のベンチで簡単な休憩をとった。私はカロリーメイトを食べ、高岡君はいわゆる「外人弁当」を広げた。中身はパイとカステラではあったらしいが、パイのほうはほとんど原型をとどめていない。 「本当に食えるのか?」 という不安はあったが、私と田中君も少しばかりご相伴にあずかった。昨日、外国人留学生の宿舎で行われたパーティの残りということで、味はまずまず。 小屋を過ぎると、地図では、55分の急登が待ち受けているはずであった。小屋の間を抜け、小屋の裏山を登っていく。清滝小屋の名前のとおり、裏には滝があった。これが清滝であろう。道は確かに急ではあるが、だらだらした登りではなく、一歩一歩登るという登山スタイルがやっとここで登場して、私としては逆に登り易いくらいだった。一歩一歩というところが、 「いかにも山の男!」 と言ってもしょうがないわけだが、そういった「ちょっとした俳優気分」 になれるのも登山の醍醐味か。演じてみたところで男三人ではどうっていうことはないわけですが。 両神山というネーミングの通り、この山は信仰の山として鳴らした山のようである。どう考えても鎖場など必要ないようなところに、鎖場があったりするのも、修行を意図しているのだろう。信仰の山にはありがちなことである。途中のピークにある両神神社・御嶽神社の奥社までに3箇所の鎖場があった。こういう鎖場にくると、山の経験というのが表に出てくるもので、高岡君は 「するする」 と、残り二人は 「えっちらおっちら」 とということになる。でも、鎖場があると、そんなに大変な山でもないのに、大変な山に登ったような気にさせてくれるので、私にとってはお得な登山ということになるのでしょうか。ここまで来ると朝のバタバタなどはどこ吹く風で、しっかり自然人となっているのであります。例の「心のリハビリ」が成功したということでありましょうか。田舎育ちの私としては、この状態(つまり、野山の中にいるということ)が通常なのです。 2つある神社にきちんとお参りをし、山頂をめざす。この神社のあるピークでほとんど登りはおしまいで、これからは、稜線にそって山頂までは楽な道となる。途中には避難小屋らしきものがあり、そこで、中学生くらいの集団にあった。はっきりいってこの年代だと力が有り余っている。歩くのも早い。後ろから引率の先生らしき人が、汗だくでフーフーついてきているのが印象的だった。 「こんにちは。」「こんにちは。」………… 「こ〜ん〜にち…………」 といった具合。声にもならない。 「先生も楽じゃないね。本当に。」 数回の登り降りが続くと、梵天尾根との分岐に出る。ここを右に行くと、山は秋真っ盛りとなった。1700mを超えているだけあって、紅葉も見頃となっていたのだ。少し早い紅葉狩りに「会社での話のネタができた」と喜んでしまうのはサラリーマンの宿命だろうか。規模は小さいものの、その特徴ある山容も相まって、すばらしい紅葉だった。 山頂には両神神社の奥の院があった。「観光地百選」の一つでもあるという頂上からは、群馬県側の山々が良く見える。埼玉県側は雲と霧だったが、この稜線で天候が二分されているのだ。この逆だと非常に悲しいことになる。そう、山頂に立っても何にも見えないというやつ。登り途中は霧だったが、神社でのお参りで、神様も少しは味方をしてくれたのでしょうか。 山頂でちょっと遅い昼食となった。三峰口で買った栃餅を食べる。栃の実の香ばしさが鼻をつく。両神山の山頂で食べるには、コンビニ弁当などより、とっておきのものだったのかもしれない。 信仰の「のぞき岩」300mの断崖からは下などのぞけなかった あとは、ただ、下るだけとなった。白井差に下山することになっていたが、バス停留所はその先の広河原で、行程としては2時間。田中君によるとバスは4時30分で、それを逃すと6時過ぎとなってしまうという。できれば、4時30分には下山してしまいたいところだ。現在2時30分。予定通りならぎりぎり間に合う勘定になる。 両神神社まではただ来た道を戻るだけで、そこから白井差への道は右手に進むことになる。途中、のぞき岩というのがあって、300m位の絶壁の頂上までぽっかりと道が続いている。修験道で有名な、紀伊半島の大峰山にも同様の場所があって、そこでは、体に紐を巻いて、絶壁に体を乗り出して、修行(ようするに肝だめし?)をするのだけれど、ここも多分同じようなものだろう。この両神山をだれが開いたのかよくわからないので、正確なことは言えないけれど、どうも修験道の香りがする山である。そう、長野の戸隠山も修験道では有名だが、あそこも山が険しく、遠くから戸隠山だということが一目瞭然なのだけれど、この両神山も晴れていると特徴ある山容が目立つ山らしい。 「足を掴んでもらって、岩の下を覗いたのよ」 という中年集団にも会ったが、そんなことしたくもない。試しに小石を2個投げてみたのだが、「カラン」 などという音はしなかった。ただ、実際には見ていないのでどの程度の絶壁かはわからない。すごい絶壁に違いないとは思うが、下を覗いていないので、実際は大きな岩の上にいたという事実が残っただけである。 のぞき岩からの下りは、多分、この行程の中で一番の難所だったといっても過言でないだろう。数週間前にやってきた台風のおかげで登山道が荒れていたというのも一つの要因だが、20分などというコースタイムは全く嘘で、40〜50分は優にかかった。鎖場は長く険しいものが多かったし、第一、路肩がかなり崩壊しているのだ。 高岡「これ、道が違ってるんじゃない。登ってきた道をもどっているんじゃ。」 田中「いや、こんな鎖場はなかったと思う。」 という会話が繰り返された。私が会話に参加していないのは、しゃべるどころか、鎖場を下るのに神経を集中させていたから。 四苦八苦して「一位ガタワ」という分岐点までやってきた。ここから清滝小屋、白井差、三笠山への道が分かれている。中でも、三笠山への尾根通しの道は取り付きからしてどう見ても相当な難路を思わせる。 「こんなところ、行く人いるのかね?」 三人は思った。 ここから白井差までは、単調な下り。ただ、大笹沢はとても美しい。周りの原生林もまた美しい。下りだったので、その美しさの一端しか見られなかったのが残念。多分登りなら、全体が見渡せてより美しさが増すのだろう。夏場なら水遊びも可能。両神山に登るのでなければ、ちょっとしたハイキングで来られるようなところだ。途中に圧巻の 「昇竜の滝」 がある。雨が降った次の日ということもあり、水量も豊富で、岩を嘗めるように水が落ちていく。 「これはなかなかいい滝じゃない?」 この辺りになると、三人も体が楽になってきているので、そこそこの会話が再開された。つづら折りの道を下り、高度はどんどん下がっていく。沢を何度となく渡ると、林道に出た。もはや4時35分。バスの時間を過ぎていた。 民宿広美荘は新車を購入したところだった 林道を下ると、白井差の小屋があり、ここから林道はきちんとした舗装路になる。白井差は、小屋の筋向かいに一軒民家があるだけで他には何もない。それからさらに30分ほど急な車道を下っていく。途中までは、短絡の歩行者用登山路もあるが、後はただ車道を下るだけとなる。「いい山でしたね。」 といった会話を弾ませながら、リズミカルに下っていく。なかなか急な下り坂だ。 広河原には一軒の民宿があり、それを過ぎたところにバス停がある。バスが来るまでにはまだ、1時間以上ある。 田中「待ちますかね。」 澤 「風呂には入りたいし。」 田中「じゃ、タクシーを呼んで。電話を探しましょう。」 民宿に電話を探しに行く。民宿は「広美荘」というらしい。見た目はいわゆる民宿だが、入り口は普通の民家の居間といった感じで、いきなり家族団らんをしていたのには、少しばかり驚いた。 「吉本新喜劇のスタジオセットかここは!」 と私は心の中で叫んでしまった。以下は広美荘の主人と田中君の会話。主人の言葉は秩父の方言であったが、正確にそれをお伝えできないのが残念(臨場感に欠けますね)。 田中「両神の温泉は何時くらいまでやってるのですか。」 主人「さあ、七時くらいまではやってるのかな」 田中「タクシー呼びたいんですよ、料金はどのくらいですかね。」 主人「さあ、回送料金も取られるし、結構かかるよ。三千円じゃきかないんじゃない。」 田中「ふ〜ん・・・」 主人「どうかね乗せてってやろうか、車も替えたとこだし」 ということで、主人の自家用車で、両神村営温泉に向かうこととなった。温泉までは10キロ以上ある。 最初の方は、「広美荘」の宣伝漬けとなった。要約すると次のようになる。かっこの中は私の内心の叫び。 ■ 料理がなかなかよい。 ■ 値段が安い。酒をたらふく飲んでも、5〜6千円。 ■ 東京なんかと違って環境がいい。 (これは当たり前) ■ 鉱泉がある。 (なるほどね) さらに続いて、 ■ どこかの学校の先生が一度来て、非常に気に入ってくれた。そのおかげで、その教え子の皆さんが来てくれ更に繁盛。 (というくらい、いい民宿なのですね) 田中「それじゃ、今度一度お世話にならないといけないですねえ。」 ■ でも、本職は電気の保守で、予約があると民宿をやるんです。 (なるほど、副業ですか。大変ですね) 主人「来るときは予約してね。いつもは秩父の自宅にいるから。今何時」 田中「5時を過ぎたとこですか。」 主人「あれ、魚を焼く時間だ!」 (あれあれ) そうこうしている内に両神温泉に着いた。 両神温泉センター薬師の湯はついに蛇口からお湯が出なかった 「山の最後は温泉で飾る」 と言うかどうかは別として、疲れた体を癒し、汗を流すというのは 「本当に極楽」 である。 しかし、私は、どうもいや〜な予感がしていた。そう、両神村は運動会をやっていたということである。あの、多数の村民があの風呂に来ているとすれば、風呂の状況は推して知るべし。オソルオソル入り口へ。そこで目に入ったものは、 「ただ今入場制限中」 という看板。 「はらほれひろ???」 案の定、風呂の湯は汚かった。「広美荘」主人との車中の会話が思い出される。 「水曜日にお湯の入れ替えをするんだよ。日曜日だと、結構汚くなってんじゃないかな。」 通常時にそうだとしたら、運動会があったこの日の状況がどれだけひどいかお察しになれるだろう。 とは言っても、こちらも山で体中汗だらけになっているわけで、汗は流したいし、しかたなく入る。 澤 「まずは、体を洗いますか。」 田中「お湯出ないね。」 両方「どうなってるの?」 両方「…………。(^^;)」 このところ、あのふるさと創世「1億円」のためにこういった田舎の温泉センターが林立した。どこもかしこも同じような建物で、かならず露天風呂があり、食堂があり、そこには町の人々がたむろしている。ようするに、村の公民館なのである。建物はいいのだが、受付のお姉さんはだいたいが、役場関係の人だったりして、愛想が非常に悪い。ここもご多分に盛れず、秩父までの帰りのバスの時間は分からないし、最悪のサービスだった。山の出湯の一軒宿なんていうのは情緒もあるし、「心のサービス」というのがある。温泉地で区域単位で管理している公衆浴場(外湯)なんていうのもいい。どうして、役所がやると、こんな風にしかならないのか。 こんなことを考えたが、納税者の一人としては 「ハハハ…………。」 と笑い飛ばして、しっかり「湯上がりのビール」を楽しんだ。 「これですよ、これ! これがあるから山登りは止められない。」 今回も心のリハビリは大成功だった。 高岡淳四の風雲山登り録・屋久島タンカン編 十九歳の年の春休みに屋久島に行った時の話だ。もう大分年月も経ったし、その間に何回も山登りをしたので、細かいこととなると殆ど記憶がないが、どうしても忘れることが出来ないことが幾つかある。 西鹿児島で落ち合ったその頃一緒の山のサークルに入っていて同行した二人のうち、一人は先輩で、一人は同級生だった。先輩は寡黙な人で、翌年の春に美学学科に進学した。同級生は、そのサークルの活動には飽き足りなくなって、籍を残しながらその春に四年に一人は事故で死人が出るという体育会の山岳部に入隊した。屋久島は年のうち半分だったか三分の二だったか雨が降るとは話に聞いていたし、天気予報もあまり芳しいものではなかったと記憶している。それでも、山男がいつも考えることは、四日も山に入っているんだから、一日ぐらいは晴れ上がって楽しい思いもするだろうということだ。南の島にアヴァンチュールを求めて旅行する高校生の期待ぐらいに裏切られやすい期待だと何度も思い知らされながら、台風でもなければついつい山の麓まで行ってしまうのは、今でも変わらない。また、屋久島は南の島でありながら、冬には大変雪が多く降るということも聞いていた。標高は2000メートル弱だが、宮之浦岳は九州で一番高い山なのだ。もう4月なのでガイドに書いてあった1メートルの積雪などということはありえないだろうが、上の方には残雪もあろうかと思ってスパッツも準備していた。でも、雪に悩まされることはないだろうとも思っていた。 屋久島行きの船に乗り込むと、添乗員が僕たちの大きなリュックザックを見て、荷物置き場に持っていくように指示した。荷物置き場の入り口のところで、通路の反対側からきた高校生の山岳部と思しき一行の顧問と思しき人物が、こちらは人数が多いからお先にどうぞと言うかと思えば、 「うちは23人もいるんです。なんせ、23人ですから。」 と大声で僕たちを制したので、 「それは大変ですね」 とかなんとか言って23人が荷物を置き終わるのを待った。 「23人もいるのなら、普通譲るものだよな。」などと言いながら客室に行くと、引率の教師が先客に向かって、 「うちは23人もいるんです。なんせ23人ですから。」 と大声を出していた。ぶつくさ言いながらも場所を譲ってあげる家族連れを睨みつけて、23人がまとまって座れるだけのスペースを確保しようとしていたのだ。高校生たちは、学校の名前の入った赤いジャージを着ていて、 「23人もいるんだから勝手な行動は慎むように、なんせ23人だからな。」 で始まり、なにかというと「23人」をもちだす教師の説教をおとなしく聞いていた。田舎の高校生はなかなか素直であると感心した。だけど僕は、この山登りの最中に起こった事件から、この九州の新設校の名前を忘れられずにいたので、この学校が最近野球で甲子園に初出場し、ベスト8に勝ち残った時には、 「おう、○○○台高校、凄いじゃないか!」 とテレビに向かって叫び、古いことを思い出して腹わたが煮えくり返ったものだ。ピッチャーの評判がよかったんだよな、こいつら。 4時間程の船旅だったと思う。甲板からの屋久島は曇っていたが、山は頂上まで見えた。港のある町の食堂で何を食べたかはもちろん忘れてしまったが、この島の名物です、と出されたタンカンという蜜柑の味は、これまでにその実一つしか食べたことはないのだが忘れられない。実がしっかりしていて、歯応えがあり、果汁には黒砂糖のような渋い甘さがあった。その日は、タクシーで登山口に入って、荒廃してしまったトロッコ小屋の跡にテントを張った。同級生にその日の夕食の準備を任せていたのだが、今思えば春から厳しい山岳部に入部するという思いからだろう、必要以上に荷物を担いで来ていて、骨付きの鳥の腿肉や白菜、椎茸、春菊、果てにはビンに入ったポン酢といった水炊きの材料が次から次へとザックから出てきたので大いに驚かされた。翌朝は残ったスープを使っておじやを作ったような気がするが、食べ物のことはさすがにいつまでも覚えているものだ。 2日目の行程は、ガイドで10時間くらいの予定だった。それまでの山登りではガイドのコースタイムを大幅に切るのを常にしていたので、6時くらいに出発すれば有名な縄文杉やウィルソン株といった屋久杉を見て、高塚山、小高塚山と順調に標高を稼ぎ、遅くても4時には永田岳の向こうの鹿之沢小屋に着くと思っていた。しかし、冬の間あまり体を動かしていなかったせいか、先頭を歩く僕は高塚山を過ぎた頃から疲れてきた。この辺りから残雪が見え始め、その上激しい雨にも見舞われた。雪の上に雨が降ると足場が大変に悪くなる。雪に一歩踏み出す度に、地面まで足がのめり込むのである。どうもこの雨が、屋久島の雪を洗い流しているようで、雪の下には大量の雪解け水が流れており、少しすると登山靴に水が染みて惨めな気持ちになっていった。スパッツは役に立たなかったわけだ。所によっては笹が生い茂っていて、それが足に絡まりつくようなこともあった。ガスに囲まれて、地形から推測しなければ自分たちがどこにいるかも分からない。このような場合に先頭を歩く者は大変に疲労するが、この日は意地を張って代わって欲しいとは口にしなかった。小高塚山から永田岳に向かい始めた上りの道でだったと思う。狭い道を大勢の人が霧の向こうから歩いてくる足音を聞いてほっとした気分になった。 「こんにちは。」 と声をかけると、先頭の中年の男性は開口一番、 「すみません、道を譲って下さい。なんせ、23人もいるものですから。」 と言った。 「我々は3人だし、ここは上りでもあるので先に行かせてくれませんか。」 と頼むと、 「23人もいますもので。」 と睨み付けてきた。待つことにした。先に行くことを強く主張するだけに、統制もとれているだろうから少し待てばいいだろうと思っていると、隊はとぎれとぎれで、もういいかと思うとまた高校生がやってくる。崖になっていたのか、前に進むことが出来なくて雨の中を5分以上待たされてしまう。僕たちはこの頃にはそろそろコースタイムよりも遅いペースが気になっていた。 「14人、15人。まだかよ。」 と声を挙げて数えながら待ち、そろそろイライラしてきた頃に最後に通った主将と思しき高校生が 「こんにちは、すみません。」 とさわやかに通り過ぎていく。 5時ごろに永田岳の麓に着いた時には、辺りは既に薄暗くなっていた。同級生はヘッドランプを頼りにしてでもと言って、1時間かけて永田岳を越えて小屋に行くことを主張したが、僕はここにテントを張ってビバークしようと主張した。 「えーっ、行けるよ。」 と言う彼を寡黙な先輩が 「無理はしないほうがいい。」 とたしなめたので少しでも平らな場所を、と幕営する場所を物色した。雪解けで普段なら大丈夫そうな場所も水浸しだったので、不承不承斜面の少し緩やかなところに決めた。この日の夕食はカレーであったが、そのことを覚えているのは、食い意地が張っているということの他にも理由がある。そろそろルーを入れようかという時に、鍋を軍手をした手で支えていた僕がはずみで鍋をひっくり返してしまったのだ。運悪く、斜面の下の方にいた先輩の方に向かって中身が流れ出して、先輩は 「あちち、あちち。」 と悲鳴をあげて飛び上がる。服が雨で湿っていたお陰か幸いにして火傷を負うことはなかったのであるが、僕たちは流れ出した具を手で掬いとって鍋に戻してでもそのカレーを食べる他はなかった。埃やこまかいゴミはもちろんのこと、運悪く、僕はその山登りにむかう途中に京都の実家に立ち寄ったのだが、そこには母が東京で一人暮らしを始めた息子のためにとセーターを編んで待ち受けていた、着て行くように勧められて、いい毛糸だから山には着て行けないと断ったのだが、山を知らない母があまりにしつこく懇願するものだから折れて着ていたところ、そのボリュームがあってすぐに散らばる毛糸は雨具から染み入る雨に濡れてテントの床に積もっていた、その毛糸が大量にカレーに入ることとなったのである。誰もお前の母親の愛情の味がするとは言わなかった。 三日目の朝、雨が激しく降っていたが、そこにずっといるわけにもいかないので、鹿之沢小屋で停滞すると決めて出発した。永田岳は宮之浦岳に続いて屋久島で2番目に高い山だが、頂上では何も見えず、とにかく小屋で休みたいという思いで通過した。分岐点についてあと少しだと張り切るが、その進入路には背の高い笹が生い茂って、俄かにはそうと信じられなかった。時間にすれば僅かであった筈だが、大変長く感じた。藪を抜けると小屋が僕たちに微笑みかけるようだった。なんとなく懐かしい匂いが漂ってくる。誰かが 「何か、臭うと思わない?」 と口にする。小屋の回りには、まるで前日の朝に産み落とされたようにみえる、まるで23人分位の糞便とティッシュペーパーが散乱していた。(──なんせ23人いるんだからな! 朝の行動は迅速にやらなくちゃいかんぞ! 一人一人順番に便所に行っていたらいつまでかかるか分からないだろう。なんせ23人いるんだからな! 山とは、こういうものなんだ!──などという訓話がまるで前日の朝にあったかのようだ。そうだとすれば本当に田舎の高校生は素直である。)お陰で、先輩は前日の一件を忘れてくれた。この日は少し晴れ間も顔を覗かせて、海が見えた。僕たちは幸福で、テントや雨具を干したりして過ごした。 4日目も雨だった。宮之浦岳の頂上を踏んだ時のこともあまり覚えてはいない。花之紅河という大変きれいな場所に出た時には何となくほっとしたものだが、その後歩いた尾之間林道があまりに長かった。この付け足しのような路を飽き飽きした気分でひたすら下り、嫌気が頂点に達した頃に大きな滝が見えた。山のガイドで扱われていなかったので面食らった。これまで見たどんな滝よりも立派で大きく見えた。その頃から潮の匂いがして、しばらく歩くと尾之間の集落に出た。宮之浦岳から1935メートル降りて海まで歩いてきたわけだ。共同浴場の湯は強い酸性で石鹸が泡立たず、肌がひりひりとした。 妃の提案・詩人だって山を歩けばいいと思う。 特に今、詩人が山に登るのによい時だと思う。なぜなら詩人は理屈よりリアリティを求めているからだ。詩人は山から帰ってきて山の詩なんかを書くだろうが、次に行くとまた書き切れていない世界が、どーんと構えているではないか。ほかにも山のことを書いているライターはたくさんいるのだが、同じ山のことを自分も書いてもそれは人まねにはならないくらい自然はまだ大きい。広い。ポストモダンは現代詩を怒りのカルチャーにしてしまった。ここで山歩きでもして気分を変えようではないか。 暇があったら、山に登ろう。東京で吹き荒れる怒りのカルチャーから脱出しよう。山の登り方は思ったよりも簡単であるし、奥多摩の山なら近いしとてもわかりやすい。山に登ると運動不足が解消されるし、その結果としてほら、あれやこれやの怒りもどこかに消えてしまい楽しくなる。そしてその楽しい状態で過ごしていきたいと思う。 低山は登りがいい。苦しくないくらいのペースで林をぬけて、ゆっくり登山道を上がって行くとそのうちに頂上に着く。非常に気分がよい。奥多摩の山なら、頂上からスモッグに霞む東京が見おろされる。これがまたよい。あんなところでぐじぐじぐじぐじと怒りをぶつけあっていたのか、ばかだなあ、と雄大な気分になれるだろう。そして帰りの電車では体は疲れているものの、不思議に気分は悪くないだろう。 春の日曜日、東京を脱出してそこらの林道を歩いていると、昨日と同じ自分なのかと思うくらい気分が変わるのであった。それはとてもすてきなことではないか。だから一月に一度くらいは奥多摩を歩こう。そんな気分の文章を載せていけたらと思う。 |