kisaki treckers Jun '95 平成7年6月15日発行
文学カルトからの分裂
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現代詩ワークショップ 広瀬大志「喉笛城」を読む 田中庸介 広瀬大志氏の新作詩集「喉笛城」(思潮社)をお送りいただき、目を通した。何かこれは非常にたくさんのイメージがたたえられている書物だなあ、とまずは思った。 一個か二個の風景が書かれているのではないのである。たとえば地平線に木が立っている、というような静かな風景というものが一方にあるとすると、「喉笛城」の世界は非常に情報量が多い。現代詩の詩集は、たとえば書店で立ちよみすることで、簡単に一読できるほどのボリュームしか持っていないものが多い。以前、「螺旋歌」という吉増詩集の時にも感じたことだが、世の中にはボリュームのある詩集というものがあるものだ、ということを認識させられるのだ。圧倒的に力を入れて、日数をかけて著者が構築された世界である、と感じた。コーヒーでもいれて、長い夜の時間を読書に打ち込むというような生活もあったのだなあ、ということを思ってしまう。決して読みやすい世界ではない。ちょっと目を通しただけでは、ほとんどよく意味がわからない、として投げ出してしまうかも知れないが、私はもう少しだけふんばって考えてみようと思った。 では広瀬大志氏は、詩、あるいは詩集を出すということについてどう考えているのだろうか。私はその答えを「後記 喉笛城構築」と題された章に求め、広瀬氏とともに現代詩の置かれた問題点を復習しようと思った。 冒頭から読む。 たまたま一番身近な喉笛を裂いて、眺めて、縫い合わせたのである。 外科手術を模したようなこの冒頭の文言は、「縫い合わせたの」の「の」が何を指しているのか判然としない。私はたまたま、「一番身近な喉笛を裂いて、眺めて、縫い合わせた」ことはない。そのようなことは、普通「たまたま」やるようなことではなくて、もっと恣意的に、何か目的をもってやるようなことなのではないか。つまり、読者にはこの文章の意味的な意味は理解できないように仕組まれている。では、どうして作者はこのような言説を唱えるのか、それはたぶん私たちが推定しなければならないことに違いない。これは、リアリティのない嘘の外科手術、あるいは殺人の世界へと空想を進めるぞ進めるぞ、という信号なのだろうか。読者をはぐらかすことで、ある種の心理ゲームへと読者を誘うのだろうか。それは依然、霧に包まれている。 そこではあらゆる思考が継続的に通過していたが、その跡には必ずといってい いほど青黒い城のような残像が、浮遊していた。 この「そこ」というのは何か。「喉笛」の中か、それとも「喉笛を裂いている場所」ということであろうか。これも判然としないが、「そこ」というような強い指示性を持つ単語を出すことで、第一文「たまたま一番身近な喉笛を裂いて、眺めて、縫い合わせたのである。」の正当性を高めるという効果がある。 そして多分間違いのないのは、この文は筆者自身の心理の世界を記述したものである、ということである。これは重要である。とすると、「喉笛を裂く」という、 衝撃的な殺人を示唆するような冒頭のキーワードは、やはり筆者のある種の心理状態の比喩、としてとらえなければならないのだろうか。おお、私はここで広瀬大志氏の詩集が、何かご自分の心理分析のようなものに主眼を置いているものであることを了解するのだ。だから私にとって、この文章の「哲学度」はかなり高い。鈴木志郎康氏はかつて、「もっとも、こころのこと」と表現されたが、現代詩というジャンルのこの「哲学度」は、他の文学ジャンルに比べてかなり高いと思う。心理、精神分析、あるいは精神病理のようなものが文学の中心課題である、という考えは特に詩人の間にかなり一般的になっているのだと思うが、詩が大好きなくせに月に一度しか詩集を読まない私にとっては、皮肉ではなく、少し新鮮に感じてしまうことなのであった。そうではない世界もあるのだけどね、と小声で言ってみたりするのだが。 それは決して「現象」や「行為」とは名付けられないものであり、かといって 「印象」の極私的な結論として、感情の記憶の端にしまわれていくようなもので もないだろう。喉笛の、血の渦の中に見えたこのフィギュールは、あるいは聞こ えてきた重奏の悲鳴のようなこの旋律は、むしろ「要因」として存在する。詩の。 「喉笛を裂く」ということが、現実的に筆者のどのような行為をさしているのかはまだ明確ではないが、そのことが「詩の要因」である、と指摘する。筆者は。だがここに対置される「喉笛の、血の渦」という視覚(フィギュール)と、「聞こえてきた重奏の悲鳴」という聴覚(旋律)なイメージは非常に楽しい。 哲学度が低くなり、具体がある。 殺人はむちゃくちゃであり、とんでもないことだ。その非常識な楽しさは、「青黒い城のような」陰鬱で、ネガティブな心理的なイメージをどこまで超えることができるのだろうか。そのような挑戦として、モダンホラーというジャンルがあるわけだろう。 〈「強度の体験ほど死に近い」/詩の強さとは、あらゆる強度の体験と測りあえ ることだ。詩が働くことによって、言葉は揺るぎないものとなる。 『妖気』参号〉 はなはだ難解な文章である。意味不明瞭な断言で、よくわからない。そのために、筆者は以下に解説する。 これは、あくまでも言葉で書かれた詩のことである。 言葉は意思を包括し、詩は書かれた言葉自体の意思性を指摘する。表出された 言葉にこそ喉笛の思考は宿る。 すると、現代フランス風の「言葉」と「思想」をめぐる軽やかな堂々巡りであろうか。「言葉は意思を包括し」というのは、まず考えがあって言葉があるのだ、という意味。「詩は書かれた言葉自体の意思性を指摘する」というのは、「現代詩は」の間違いだと思う。ここに現代詩の持つ特殊な理想の二番目がするどく存在する。前提として、現代詩は「哲学度」が高いものであるべきなのに、表現の表面には考えの手筋が現われていてはならない、ということである。この表面と内面を故意に対立させる詩論によって、現代詩はアプリオリにダブルバインド的な心理の罠で関係者を呪縛し、精神の分裂を刺激する。このことが戦後詩を通じてかなり問題となりつづけていて、そろそろ私たちはどこかで踏みとどまらなければならないのだ。 そう考えると、「表出された言葉にこそ喉笛の思考は宿る。」とか、「詩の強さとは、あらゆる強度の体験と測りあえることだ。詩が働くことによって、言葉は揺るぎないものとなる。」というような何か非常に楽天的な自信は、広瀬さんなりの「言葉」の側への開き直りではないかと思われてくる。そこが、この詩集の読むべきところなのかも知れない。 「てつがく」は肩がこって、お腹がすくものなので、もう終わりにしたいというようなこの気分は、非常に九十年代的だと思う。「アクション、アクション」と、一億総アホバカ化して突っ走る日本の世紀末と同時代的な思潮として、現代詩の開き直りもとらえられることになるのではないか。 切り開かれたその場所の海洋には、絶対的な名称が与えられる。流動するあま たの単語はあまたの名称へと、連結を続け──色彩は「傷の旅団」として、形態 は「剃刀食い」として、対応は「魔笛」として、悲歌は「ガス燈」として──作 為という聳動が自己を脅す。自己を奮い立たす。環境を閉塞させ、開放し、水浸 しにする。 城戸朱理氏はしおり解説の中で、「突発的な事態が出来する」という表現を使われているが、この「傷の旅団」とか「剃刀食い」とか「魔笛」とか「ガス燈」とかいう詩のタイトル、あるいはその象徴する色彩と形態と対応と悲歌──という四次元のそれぞれの軸の設定には、何か特に必然性のようなものは感じられない。「作為という聳動」のままに、非常に楽天的な自信によって詩の地平に「切り開かれたその場所」にイメージが浮かべられて行ったのだろうか。すると、これはシュルレアリスム的な手法によって構築された詩集ということになろう。その表現の強度としては実際、どこまで明るいか、という指標が要求されることになるのだと思う。その明るさこそが、このインディカ米を噛みしめるような言葉のつながりを「読んでよかった」と思えるかどうか、という評価につながるものなのだと思う。 何故、つくられた言葉は(これらの城のパーツは)精神のようであるのか。 名称は整理を始める。開かれた場所での視野は、しばしその淵に留められる。 (その時の心理を肉体的な尺度で言い表してみよう)「針で。必ず針で」 「つくられた言葉は精神のようである」という命題、つまり、前述したような心理、精神分析、あるいは精神病理のようなものが文学の中心課題であるという原理がここでも繰り返されている。哲学度の高さを筆者はなに疑うことなく、前提として言ってのける。そのように構築された「哲学的な文学」である現代詩の言葉を用いて、言葉を「整理」し、考えを構成しようとする。広瀬氏の詩集は、前作「浄夜」もそうであるが、きわめて構成的である。無作為的に記述されたイメージが、自己組織化されて哲学の論理体系のようなものに集約されていく過程が描かれていく。つまり、現代詩は哲学的な実験の方法論の一つであるという前提がここにはあるのだ。その前提はあらゆる人々にとって当然のものではないのだが。 「開かれた場所での視野は、しばしその淵に留められる。」という表現はことに難解である。特に「淵」の意味するものが。「海洋」とか、「水浸し」などという、水の比喩の文脈から導き出された比喩の一つであろう、と思われる。「その淵に」を省略して考えれば、「視野が留められる」となる。無作為的な言葉を論理化しているあいだには、無作為的な言葉の生産は一時的に起こらなくなるという意味であろうか。 あるいは、「針で。必ず針で」という表現はどのような意味なのか? 何か針を突き刺されて痛いのか、それとも針の先のように細かいのか? これが「肉体的な尺度」であると著者は言うが、「肉体的」という、「てつがく」のジャーゴンであるらしい単語を使うことにどのような意味があるのか? このようなところが、非常にわかりにくい箇所であると私は思う。 残像の油膜は滴り落ちていく。 (白紙は誰の精神なのか) 興奮が収まって、静かに語りかける口調になるが、著者の心理構造を詩的な比喩で語る文章は続く。「残像」という心理的な、あまりにも心理的な現象について、「油膜は滴り落ちていく」という具体的なイメージで比喩する、というのがたとえばその箇所である。私はこういう文章は以前にも読んだことがある。「螺旋歌」の筆者が際限なく書き続ける詩論のようなものもこのような調子であった。こういう筆者自身の心理描写につきあわされる文章というのを感覚的な文章、と呼ぶのかと思う。「青黒い城」のような「残像」にはオイルの膜がかぶっていたのだろうか、それとも「残像」そのものがオイルの膜なのだろうか。その感覚を共有できない時に私たちは疎外感を覚える。城戸朱理のようにあきれるのか、鈴木志郎康のように馬鹿にするのか、その他大勢のようにただ無視するのか、さまざまな態度があると思うが、私はそういうすきま風で心を冷やしたくはないが、まじめに読もうとするとつかれるなあ。とにかく、このように意味があいまいなままに過ぎていく文章を読んでいるのだなあ、ということはわかってきた。もうこうなったら、この文章が「わかりにくい」ということは断定してもよいと思う。少なくとも、私はそう思う。 その「わかりにくさ」を規定している要因は、この文章が「現代詩の呼吸」と呼ばれる一つの定型の上に成立しているということがある。久しぶりに思い出した現代詩の次の前提条件としては、詩なのだから、意味は関係ないという「意味性の放棄」がある。詩はことばの芸術であるから、それは抽象画みたいなもので、言葉の姿を鑑賞すればいいのだ、という。つまり、視覚的には漢字とひらがなと文字数のバランスであり、聴覚的には音韻と音数のリズムである。つまりこの、(白紙は誰の精神なのか)という行において、白紙は誰の(七音)、精神なのか(七音)と七七調で決めるということがもっとも重要な意図であるというぐあいに理解すれば、論理性あるいは指示性の不安に対して、われわれ読者は急に軽く、安心することもできるのだ。こうして、ところどころわかるような、あるいはわからないような、というように意味性レベルが乱高下しながら文章が進行していくのも、「螺旋歌」の著者と共通するものがあるのではないだろうか。論説文と感覚的な文章をごっちゃに混ぜてしまうというこの書き方、あるいはフランス伝来のものだろうか。というわけで、この二行は現代詩の言葉のまあまあ美しい艶である、と理解しよう。 体験が死の距離との関係を持つならば、我々があらゆる体験の事前に抱く思い は、恐怖から派生するものである。そして体験の後に抱く思いは、合理的な生の 確認の度合に外ならない。 「体験が死の距離との関係を持つならば」という条件節も、その意味するところがわかりにくい。もっとも難解な点は、「死の距離」という日本語である。つぎに、「死の距離との関係」とは一体なんなのだ。私たちは「死の恐怖」というような概念を連想するだろうが、それはあくまでも連想である。筆者が「強度の体験ほど死に近い」という引用から考えを進めているということの確認であるとも考えられる。 この点を除けば、対置された二文の意味は比較的理解しやすい。筆者はここで、自らの心理状態、あるいは「モダン・ホラー」に集約される心のありかたについての分析を述べているのだ。つまりここでは、あらゆる体験に対して、まず、「恐怖」に象徴されるような、ネガティブな心のフィルターをまず設定して対応することによって、その後に、揺れ戻し的に感じられる生のよろこびもまた大きいものだ、とする人生観が(普遍的なものとして)語られているのだ。つまり、心理ゲームは面白いという考え方だ。人生はお化け屋敷だ、というわけだ。 それは確かに一面的には真実ではあるに違いないが、現代詩はこの一点に向かって強迫的に、極端に走りすぎてしまっている。「ハレ」の日ばかりの、面白すぎる人生というのは少し危険なのではないだろうか。ゲームは、そこから離れるときには確実に人を疲れさせている。少しは「静かな人生」にもあこがれなさい。 というところで、友人から電話がかかってきた。彼の言うところでは、やはりこういう現代詩の世界というのは、知らない人には思いもつかない、 「えっ」 と絶句してしまうようなカルト的な世界である、ということであった。読み始めて三日目の晩になるのだが、ここらあたりまで来ると、 「実は、それほど変な世界なのではないのではないか」 というような、価値観のぐらつきを少し感じるようにもなっていたのである。彼の電話は 「やはりこれは変だ」 という自信をとりもどさせてくれた。ありがとう。 そこで、事態は次のようにも考えられる。「詩」という表現ジャンルはきっと、そもそものところ、もっといろいろな、さまざまな可能性があるはずだが、とりあえず現代詩というジャンルはその進化の過程で、その時々に具合のいいように、誰かが恣意的に 「このことはこうこうでなければならない」 という断定を付け加えてきたものではないだろうか。そして、その一つ一つの教えは、誰か特定の個人の考えであったに他ならないのにもかかわらず、それが「詩」についての普遍的な条件であるかのように信じるように、後の世の人々には無反省的に受け入れられている、ということがたくさんあるようだ。いま読んでいるこの広瀬さんのテキストは、このようないままでの現代詩の教えのさまざまを、果敢にも整理して提示している文章だ、という点で非常に評価できる。今までこれほどまでに現代詩の最先端が直面しているカルト的な危機について、それをあらけだして分析的に記述した文章はなかった。広瀬さんはこの詩集で一歩もそこから逃げることなく、まず現実に直面するところから始めている。その勇気は非常に立派なことで、現代詩の先端の名を誰はばかることなく名乗れる仕事になっていると思う。 私がこの文章で広瀬さんのテキストを通して進めているのは、広瀬さんがあくまでも感覚的に指摘する、 「普遍的でないのにもかかわらず普遍的であると信じられている前提」 を、感覚的なテキストから論理的な文章に置き換えることなのだ。それは現代の詩人たちにとって、詩の新たな可能性を論理的に切り開くために、ぜひとも必要な行為であるように思われる。広瀬さんのテキストはこのあたりからますます過激になってきて、今までの詩人が思っても言わなかったような、 「そこまで言うか」 というような内容に突入していく。 ただし組み合わされ、観察された言葉こそは、直接的な恐怖の形象である。 「ただし」である。 人生がお化け屋敷だとかいう悠長な話をしているわけではないのだ。詩の言葉こそ、非常に恐ろしいものなのだ、と筆者は言う。 言ってしまいましたね、ついに、という感じである。読んで心が安らかになるような詩というものも十分にあり得るはずなのに、現代詩は読むと恐ろしいものなのだ。諸君、現代詩は読むと恐ろしいものなのですよ。(まさかそんな馬鹿なことはないだろうと思われる読者も多いだろうが、これはかなり深刻な事実である、とだけすでに現代詩というものを数多く読んでしまった私は報告しておこう) このような、人に恐怖を与えるようなものを取り上げて、「現代詩のポピュラー化」などということを議論するのはかなりブラックな度胸がいる。 詩は体験ではない。詩は体験を持たない。さらには真性の体験を表さない。(無 論、疑似性のそれも) 「隣の人は頭ごと持っていかれた」(ああ、血の音がする。言葉として) この断定はいったい何だろう。「隣の人は頭ごと持っていかれた」というのは、「ガス燈」という詩篇の書き出しの二行だが、この 隣の人は 頭ごと持っていかれた という詩句の読みに、どこまで私は読者として入るべきか。 城戸朱理氏は「異貌の言葉」(しおり)として「ときおり現代詩的な響きを耳にすることはあるものの、詩の言葉は行を追うにつれ必ず脱臼し、不可思議な音律を生成されていく」と語るが、確かに現代詩の多くの詩人が詩のテクニックとして習う手筋から外れた言葉を積み上げているということは認められる。それはつまり、そこらに量産される詩人よりは一歩ぬきんでた技術レベルに到達し得ているという評価で、私は同意する。そのレベルの評論で終わってしまうような詩集も確かに多くあるので、ここではそれを超えたレベルの議論ができることに感謝したい。 ここで問題なのはリアリティの無さである。一体、この語句に「血の音がする」だろうか。血の音などはしない──、と広瀬氏も実は思っているようなのだ。というのは「言葉として」と留保を付け加えているからである。つまりこの作品は「(ラヴクラフトのように)寓話を仮構するものではない」(城戸氏)、純粋に言葉だけのものを志向している。それはなぜかというと、この詩集がやはり現代詩だからであり、現代詩は言語の抽象画だから「真性の体験」を表わしてはいけないと思われているからである。 だから、このようなものに対してよく言われるような、「リアリティがない」というような批判も、お門違いということになるだろう。だが「詩は体験ではない。詩は体験を持たない。さらには真性の体験を表さない」と広瀬氏は言うが、私は必ずしもそうである必要はないと考えているので、たとえば 北八ヶ岳は森と、岩の道が印象的だった。 (「夏の山」) などという詩を書いてもいいと思っている人なのだけれど。 詩は体験の及ばない恐怖であり、言葉を追い詰める装置だ。 また「詩は」である。絶対的に「詩は体験の及ばない恐怖であり、言葉を追い詰める装置だ」と、広瀬さんは思い込んでいるのである。ところで、「体験の及ばない恐怖」というのは生きていく上で、少し過剰なものなのではないか。「理由のない不安」と同じようなものでしょう。ちょ、ちょっと待ってください。枠組みとしては、いわゆる純文学によくあるような、読者をネガティブな心理状態に蹴りこんであげることは、そこから日常に立ち戻るための心の旅を通して人生をより豊かにさせてあげるようなサービスなのだということだったはずでしょう。「体験の及ばない恐怖」というこの、意識の管理の及ばない感情の世界を賞揚することは、何か現実とを結ぶ糸がひそかにぷつん、と切れて「詩」というカルト的な主体に飲み込まれてしまったのではないか、という疑いをいだいてしまうところだ。 むしろ、「言葉を追い詰める装置だ。」という方が理解できる。あらゆる芸術において、その素材を率直に評価し、厳選して使用することは、王道である。詩の場合には素材は、言葉である。だから、言葉を吟味するという意味で「追い詰める」という表現が出てくるのは、理解可能なのだ。だが、 きりきりと城は、城の影は、立ち上がっていく。血のマトリックスの全ての項 目に埋められる旋律、韻律、譖調。 何故、精神は恐怖のようであるのか。 「精神は恐怖のようである」というこの日本語の比喩は完全に明確なものとは言えないが、「何故」という問いの目的語として提示されているので、あきらかにそれは当然であるという前提のもとに置かれていることがわかる。「恐怖」という精神的に深刻な問題を「よう」でぼかしている。 このような疑問をいきなりつきつけられても、きりきりとした不安と困惑を感じるばかりだ。一体、精神は「恐怖のよう」でなければならないものなのか。 これは実は、詩人にとって思いのほか、深刻な問題なのではないだろうか。 今まで私たちは、断じて揺るがない理想的な精神をとりあえず持っている「読者」、あるいは関係者として他人事として詩を論じてきた。だから、その「詩を論じている」という枠組みの中で、どんな心理ゲームも処理してくることができただろう。だが現代詩と関わる限り「恐怖」がほとんど永続するというのは、現代詩は生理的にかなり気持ちを悪くするものということになってしまうのではないか。詩人とは「恐怖」に打ち震えているものでなければならないというのなら、詩人である限り、「気持ちがよい」体験は不謹慎、不可能なのか。そうまで強制されて、果たして精神のバランスを完全に保ち切ることはできるのだろうか。たぶん、「現代詩」のまえには、「精神衛生」などということはどうでもいいことに思えてしまうのだろう。文学の多くは、「心理、精神分析、あるいは精神病理のようなものが文学の中心課題である」と言っておきながら、読者の「精神衛生」は一向にフォローしない。口では何と言っていようとも、読者(作者も)が少しでもしあわせになることを心から願ってはいないのではないか。少なくとも、教えを忠実に実行するならば、「より高いステージの詩のために」、「恐怖」に打ち震える精神にはその余裕はないはずである。このあたり、広瀬氏の詩論には本末転倒した宗教的な思い込みがうかがえるではないか。そして、その思い込みを氏に提示した人は誰あろう、かの「螺旋歌」の作者であるように私には思える。この恐怖の質は「螺旋歌」の詩人から受けるものと、非常に類似したものがあるからだ。 視野は、一塊の升目を掬う。恐怖への恐怖とは「生きている証に死んでみせる こと」か、あるいは「死んでいる証に起き上がること」か。どちらも可能である。 肉体は遠のき、きりきりと城は、真実の根拠なき仮説を告げるために、軋み続 ける。 「真実の根拠なき仮説を告げるために」という、虚構の目標をめざして、「肉体」は遠のいてしまうのであった。こうして、「本末転倒」は、言葉で構築された「精神の城」として、さらに堅固な正統化の網に縛られていく。この倒錯は、すでに吉増がシャーマニズムを素材にした「恋の山」を書いたときに、鈴木志郎康が『極私的現代詩入門』(1975)で呆れながら指摘したものではなかったか。 そうなのか、吉増氏の頭の中には一つの信仰が生れ始めているのか、と思って しまうのだ。(中略)吉増氏自身、土地の精霊という言葉を持ち出して来ても、そ の言葉が現実的には何の意味もないということはよく知っているのだと思う。む しろ、その言葉が現在では現実的には何の意味も持ち得ないからこそ、その言葉 を使っているのだ。(中略)彼はそうした言葉で一つの人工的な狂気を生み出す作 業をやっているのだ。だが、この『王国』という詩集では、その狂気が形式とし ての狂気ではとどまらないところまで来てしまったのだ。(中略)吉増剛造は自分 が言葉で作ったにせの狂気に本気で意味を込めようとしているのか、と思ってし まう。私は何んだか気味が悪くなってしまうのだ。 (「吉増剛造詩集『王国』を読んでいろいろと思った」) というわけで、四日目の今日は、秋川渓谷でバーベキューをして一挙にアウトドア化してしまったのだった。「秋川橋バーベキューランド」という、五日市の町の公営の施設で、鉄板その他、なにもかも貸し出してくれるのだ。河原に石のかまどが作ってあり、そこで炭火で牛のステーキ、えび、げそ、野菜、やきそばなど大量の材料を炒めるのだ。うまかった。職員の人も親切だったし、川を見ながら川原でお酒を飲んでいると、何か満ち足りてくるものがあるのであった。そのあと、仲間と大岳鍾乳洞というのに遊びに行った。秋川の支流の養沢川を車でさかのぼって行った、ひっそりとした山あいに鍾乳洞はあった。その中は結構寒く、また狭くてすべりやすかったが、電灯がついているので安心である。適度に洞窟探検的なスリルがあり、非常におもしろかった。 奥多摩の山は、やはりまた私に予想以上に元気を与えてくれた。心をすりへらす文学の「恐怖」のことを考えると、どうも気持ちが塞いでしまうものがあるが、大きな夕焼けを見たりすると、まあそんなに目くじらを立てることもないか、などと少しはやさしい気分を取り戻すことができた。 留められた視野は、段階的な恐怖を、冷静に測らなければならない。そのため に詩は、フィクションとして完成される。 詩は思弁的な虚構を保っている。書かれた状態のものは、極めて詰問的(誰に? 何に?)な視覚であり、音域である。 そう、詩はフィクションなのだ。(何に対して?) 恣意的な言語に対して。 城が輝くと、世界は裏返る。 体験的な精神、すなわち物語に対して。 そして詩作は演繹的な推理だ。 どちらかを選ぶ為の。 (どの方角からも光が当たる。相変わらず城はできていない) (どの方角からも闇が当たる。城は聳え立ち、しかも全く見えない) 塞ごう。 私が考えるのに、ここには非常に古典的な「現代詩」の世界があるのではないか。その「思弁的な虚構を保っている」ことのできる広瀬さんの詩の世界はピュアで、素敵だなあと思った。普通の仕事をしながら、インテリの世界を保ちつづけることは、並みたいていの意思の力ではないのに違いない。きっと、現代詩の「恐怖」は、そうした評価を受ける仕事へと駆り立てる原動力になっているのだ。 だが、こうした「思弁」は読者を選別するモードだ。インテリは、それ自体一つの不幸であり、究極的には、どこまでその不幸を作者と共有できるか、ということによって作品に読者は選ばれてしまうのだ。この作品は、典型的なシュルレアリスム的過激だ。つまり、城戸氏が「恐怖は人間に気紛れに要求する」と総括するように、不幸のどん底に叩き落とされた人間というものは、「何をしでかすかわからない」というような不確定性がある。シュルレアリスムはその不確定性を無意識の露呈であるとして観賞する──観賞する際には、その不幸のどん底の世界に感情移入することが要請される。その破天荒さを「過激」な美しさとして、評価するために。これを「虚構」と呼ぶのは一種の知的な逃げで、ほんとうに不幸のどん底にあるかどうかということが、実は踏み絵されているのだ。 原初の感情である「恐怖」の本質に少しでも近づこうとした詩集が本書であり、 その〈精神のような形をした言葉の自立性〉において、本書が最も近いジャンル は「モダン・ホラー」ではなかろうか、と思うこともある。 と著者は述べる。私は、このような著者の態度はすぐれて現代詩的であると思う。 現代詩は疑似サイエンスなのだ。何かを「わかる」ためにテキストを書くのだ、という大義名分がどうしてもそこにつきまとってしまう。これは、非常に「思弁」的な営みであるのに間違いない。「原初の感情の本質」に少しでも近づこうとした、と作者は述べるが、「感情の本質」などという抽象的なものの存在をなに疑うことなく精神分析的なドライブとしてしまうような、このナイーブさが潔いではないか。くりかえすが、精神現象を分析することに最終的な価値を見い出してしまうなどということができるのである。ネガティブな心理を分析したところで、その解決にはならない、などというのはこの著者の態度ではないのだ。それは現代詩が文系のサイエンスの基礎の上に成り立ってきた半学問的芸術ジャンルだからであって、詩人は職人よりも、学者たろうとしつづけてきたからだ。 以上のような、広瀬大志氏の新しい詩集「喉笛城」後記の分析によって、私たちは現代詩が暗黙の上にジャンルの特徴として強いてきた、いくつかの非常に特殊な限定を可視化することに成功したと思う。それは、詩の世界の先人たちがお題目のごとく唱え、他との差別化をはかるために利用してきた審査基準でもあった。 まず、詩をなぜ書くかという目的である。「他人をちょっぴり幸せにしてあげるため」などではなく、現代詩の場合はあくまでも、知的に精神現象を分析するためである。理解する喜びのために、詩人はナニモノカを追究しつづけなくてはいけないものだと考えられているのだ。つまり、詩人は職人ではなく、学者でなければならないと思い込まれている。フランス文学者をめざす者が詩人になることが多いからこのような混乱が生じるのだろうか。これはあきらかに混乱である。詩は、他人をしあわせにするために書くものである、と私は思う。疑似サイエンスっぽく、やたらに精神を分析しても、精神の問題が解決して幸福になれるとは限らないのだ。もっと他人のためになることをしなければならない、と思う。 このように、現代詩は哲学的な実験の方法論の一つであるということなので、その真理の追究のためには何かほかのものはおろそかになってもやむを得ない、という考えになってくる。読者が楽しくなくても、読むと恐怖にひきずりこまれるような詩集になってしまっても、まあそれが真理の解明に役にたつならしょうがないだろう。これはあきらかに自己中心的な考え方である。人間を追究しているはずなのに、人間より真理のほうが重要になってしまっている。もっと人を大切にしたい、と思う。 また、他人が真理を獲得するお手伝いをしてあげているのだ、という思い上がった考え方もある。読者をネガティブな心理状態に蹴りこんであげることは、そこから日常に立ち戻るための心の旅を通して人生をより豊かにさせてあげるようなサービスなのだ、というような言い逃れである。このような余計な心理ゲームを生じさせることは、心の消耗を招きこそすれ、何も読者にもたらすことはないのである。詩を読んでまで恐怖を感じなくても、読者の多くは十分に不幸であり、恐怖を感じる局面も多いに違いない。私は、読者を落ち込ませるような文学よりも、落ち込みから立ち直る助けになるような詩を書きたい。「お化け屋敷」のように、刺激が強すぎるものが永遠につづかなければ退屈でやっていられない、というのでは薬物中毒的な態度を感じさせる。面白すぎて、体がへろへろになってしまうだろう。あまりにも面白すぎるものばっかりなのは、危険である。 しかしなんといっても、この詩集の最大の功績は、現代詩の支配原理とでもいうべきものが「恐怖」である、と指摘した点であろう。私たちがものをあるがままに見ることができなくなってしまうのは、往々にして「恐怖」があるためである。現代詩の弊害というものがよく言われるが、本当にオリジナリティのある創造ができなくなってしまう原因には、現代詩そのものに対する恐怖がある。私もやはり、現代詩は「言葉の自立性」を大切にする言語の抽象画だから意味は関係なく、「真性の体験」を表わしてはいけない、とか、表現の表面には考えの手筋が現われていてはならない、他人に影響されてはならないというようなお題目に対しては恐怖感をもって反応せざるを得ない。だれかが何かを言ってくるという具体的な危険は見えないのにもかかわらず、何かしらそのようなお題目(まだ言語化されていないルールがこの他にもたくさんあるのは間違いない)を意識してしまい、ハンドルをとられて完全に自分では考えられない状態に陥りがちである。挙句の果てには、詩の言葉で他人に心理的なダメージを与えようとするようなことになってしまい、「詩の言葉こそ、非常に恐ろしいものなのだ」というような被害妄想的な恐怖を抱いてしまうようになってしまう。真理の追究のまえには詩人の精神衛生などどうでもよく、むしろ詩人とは「恐怖」に打ち震えているものでなければならない、などと言われるかも知れないが、それこそまさに本末転倒である。また、「肉体」が遠のいてしまい、完全に精神世界のことに完全に話が切り離されてしまうのも、他人の言うことなどに惑わされ易くなるので非常に危険である。私は、このような意味もない恐怖におののくのではなく、もっと落ち着いて考えられるような精神のスペースを確保したいと思う。 つまり、誰が何のために設定したのかは見えないが、現在の現代詩と呼ばれる芸術ジャンルは、「真理」の追究というお題目のもとに、それにかかわる者を「恐怖」でマインド・コントロールするというような、きわめてカルト的な状況にあるということが明らかになった。カルトは自律的に増殖するから、今後もこのような枠組みに乗って、それなりの詩集は量産されていくのだろう。 しかし、カルト的ではない詩の可能性は依然、残されたままである。私は、そのような詩を書いていきたいと強く思うし、実際よく考えてみられれば、本当の意味での社会的な需要は、潜在的にそちらの方がはるかに大きいものである、ということに思い当たるであろう。鈴木志郎康という詩人も、「極私的現代詩入門」の時点では、カルトではなく、もっと半径三十メートル以内のリアリティにこだわる、という椎名誠のような非カルトの立場から出発したのだ。 広瀬氏も言われるように、現代詩というジャンルはこのように、カルトとそうではないものに「分裂」し続けるものなのだろう。 あとがき 現代詩を読んだら、何かを言わなければならないような気になることがよくある。それは私の場合、論理化しようとする方向に向かうので、この現代詩のどこが現代詩しているのかというような話になってしまう。その熱心な心理はすばらしいもの、とはやはり言えないもので、そこには何か「ひどい」ものが感じられるように思う。つまり、たとえばこの「現代詩している」という言い方だって、そこには皮肉と軽蔑と怒りが含まれているでしょう。決して後味のよいものではない。 このような書き出しの文章は、当然現代詩を断罪しようとする方向へと展開していってしまう。つまり、自分で自分を語ろうとすることは非常に危険なことなのだが、この文章そのものが、「何かを言わなければならないような」衝動的な気分の影響下にあるらしいという気がする。 それは何がいけないのだ、というわけではないととりあえず言っておこう。そこで怒ってしまってはいけない。衝動的な気分、それが問題だ。というより、それはひどいもので幸福ではないしロマンティックではないもの。幸福な日常というものがあると理解しているとすると、たくさんのギャップが生じるだろう。当惑するのか倒錯するのか、あるいは怒りを覚えるのか、その反応は各人さまざまだが、衝動的な気分にさせられてしまう、という、その気分を操作される感じが、気がついてみると「現代詩」というものに対する怒りを増幅させる。つまり、現代詩を読むと気持ちがぎざぎざになるわけ。 現代詩の議論は怒りの連鎖である。つまり、怒っている人が何か言うと、それを聞いた人がまた怒る。「怒り」は、その人に何か言いたい気持ちを起こさせてしまい、その人は次のターゲットを探させられて、「怒り」を伝染することを言わせられてしまう。その結果として、エネルギーレベルが下がる。疲れる。 この「疲れ」を感じないようにするためには、「怒り」を連続させていればそれなりの快感が得られるという気にさせられるのだ。冷静になって考えてみたりしたらすごくつらい「疲れ」を感じてしまうよ、だからこのままずっと怒っていなさい、と「怒り」はささやくのだ。 この「怒り」によるマインド・コントロールは誰によって、という明確な「悪者」がぜんぜん見えない構造も、社会的な無力感を助長させる。二流の(失礼)同人雑誌は仕方がないので、たとえば「現代詩手帖」が悪い、とか「中央詩壇」が悪い、とかいうような社説をもっともらしく掲げているようだ。私は、そういう問題ではないように思う。「現代詩」という、この巨大なエネルギー交換装置に、みんながみんな荷担して、少しずつ負のエネルギーを供出させられているのだと思う。だから、誰もみな、少しずつ加害者であると同時に少しずつ被害者になってしまっているのだ。だから、先鋭的な現代詩集が届くと、心に傷をつけられて、何かそのことについて言いたくなって、長い文章を書いてしまったりするわけ。あーあ、窓の外は雨が降っているのだよ。 満足すればいいのだ、そんなことではなくて。この不愉快な連鎖を自分のところで止めるためには、詩壇全部の不幸を引き受けなければいけないような気がするかも知れないが、そんな大それたことではないんだよね。マインド・コントロールから自由になろう。それだけのことだ。 ここまで来ると、こんなことをしていても生産的ではない、という徒労感がこみあげてくる。だがそれは、マインド・コントロールから実際に自由になったことの証拠である。何か気持ちの奥がすごく疲れていることにも気がつくだろう。だがそれは自然なことだ。だってあれだけ怒っていたんだから。それでいいのだ、と思う。 少し休もう。 |